【人間文化学科】新任教員「古内絵里子講師」の紹介

【人間文化学科】新任教員「古内絵里子講師」の紹介

今回は、今年度、人間文化学科の教員として着任の古内絵里子講師について、学長室ブログメンバーの清水が紹介します。掲載に少し手間取ったこの時期での紹介となりましたので、まずは私の方からこの前期における古内講師の奮闘ぶりをお伝えし、それからご本人からの自己紹介に移りたいと思います。

着任後の古内講師が授業を担当して課題と感じたことは、「授業における学生とのコミュニケーション」だったそうです。これまで通りの授業が困難な中、学生たちといかにコミュニケーションを取っていくか……。こうした点について、古内講師は試行錯誤を重ねつつ授業を進めたとのことで、後期も同様のことが課題となりそうですが、前期での経験を踏まえ、目下準備を進めているそうです。

また、この夏に行われたWEBでのキャンパス見学会では、学科の顔として模擬授業も担当という大活躍。こちらも遠隔という形態でしたが、古内講師の専門である日本古代史についての興味深い授業でした。現代を生きる私たちからは直接見ることの難しい日本古代の風景風景に関する穏やかな口調での説明が印象的でした。今後の研究と教育についても期待しています。

それでは、以下、古内講師からの自己紹介です。

・自己紹介
4月より人間文化学科の講師に着任しました古内絵里子と申します。どうぞよろしくお願いいたします。

学科では、「日本史概論」や「東アジアの歴史と文化Ⅰ・Ⅱ」など歴史系の科目を担当しています。「東アジアの歴史と文化Ⅰ・Ⅱ」では、アジアと日本との国際関係史をみていくことで、食や建築、文字、服飾、生活スタイルなど、私たちが今日生活する中で当たり前にあるものが、いつどのようにして形成され、日本に根付いたのかを考えてもらっています。

 

・専門分野
私の専門は日本古代史で、特に7世紀から9世紀の日本の古代都市について研究を行っています。日本古代において、都市とは王権の所在地であるのと同時に、政治・経済・文化・宗教等が集積した空間であり、その時代の国家の縮図ともいえます。

今から約1300年前には、日本で初めて中国の都市様式を取り入れた藤原京(現在の奈良県橿原市)が造営されました。その大きさは、南北約4.8㎞、東西約5.2㎞で、東西南北に張り巡らされた道路によって碁盤目街並みが作られ、中央には藤原宮という宮城、つまり天皇の住居が置かれ、儀式や政治が行われていました。そして、宮城の周辺の都市空間には貴族から一般庶民にいたるまであらゆる階層の人々が生活していました。また、710年には現在の奈良市の平城京に遷都し、それ以降、794年に平安京(現在の京都府京都市)が都となるまで都の場所は転々としており、多くの都市が作られました。

これら都市遺跡からは、宮殿や住居跡、木簡や食器、箸など、たくさんの考古資料が発見されています。これら新出の考古資料と『日本書紀』や『続日本紀』などの国史や、奈良時代に作成された正倉院文書を始めとした文献資料を組み合わせて分析を行い、私たちの祖先である日本古代の人々がどのような仕事や生活、食事、服装、遊びなどをしていたのかを明らかにしています。

 

 

・地域研究
今後は、古代から現代にかけての港町・鞆の浦や備後国府・備後国分寺、芦田川中州にあった中世都市の草戸千軒遺跡など備後地域の歴史の研究も進めていきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。

 

学長から一言:古内講師、ようこそ福山大学へ!赴任早々、コロナ禍という異常事態の中で教育や研究を強いられることになり、慣れ親しんだ教室での普通の対面授業とは異なる工夫を凝らさなくてはならず、さぞかし適応がたいへんだったことだろうと想像します。先日のWEBでのキャンパス見学会では、これはオンラインの長所でしょうが、他学科の様子を視聴するのと平行して、古内講師による模擬授業の様子を私も聴講することができました。古代日本の有様が淀みなく語られるのに、思わず聴き入ったものです。これからさらに磨きのかかった授業や、この地域も視野に入れた新たな研究の展開を見せていただけるものと期待しています。