【人間文化学科】井伏鱒二研究の成果を公開へ―未公開書簡が語るものとは

【人間文化学科】井伏鱒二研究の成果を公開へ―未公開書簡が語るものとは

科研費チームによる井伏鱒二研究の報告会が開かれました。

学長室ブログメンバー、人間文化学科の清水です。こんにちは。今回は、人間文化学科の青木美保教授による科研費「井伏鱒未公開書簡の基礎的研究―文学の生成と「同学コミュニティ」の関係を視座に」報告会(同時開催 展示「井伏鱒二未公開書簡の宛名人・高田類三の文学活動と高田家」)について、お伝えします。以下は、青木教授からの報告です。

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「井伏鱒二未公開書簡」は、福山中学時代の井伏の同級生・高田類三に宛てた160通あまりの書簡で、これによって、それまで知られることのなかった井伏の中学卒業前後から文学習作期を含む文学形成期の井伏の動向を知る端緒が開かれることとなりました。この資料の存在については、2016年10月にプレスリリースし、新聞各紙で大きく取り上げられました。同年、科学研究費に応募し、2017年4月1日付で、基盤研究C17K02482「「井伏鱒未公開書簡の基礎的研究―文学の生成と「同学コミュニティ」の関係を視座に」(2017年度~2019年度)として採択されたところです。

今年度は、その研究の最終年度に当たるため、これまでの研究成果をこれまで本研究にご協力いただいた方々や地域の文学愛好家を対象として、そしてさらには広く地域に発表するため、本報告会及び展示を下記日程で開催しました。当日は、資料として『報告書 井伏鱒二の未公開書簡の基礎的研究―文学の生成と「同学コミュニティ」の関係を視座に―』(福山大学人間文化学部日本近現代文学研究室内 同科研費チーム(研究代表者・青木美保)編集兼発行 2020年2月27日)を配布しました。

報告書(菊地永史氏撮影)

 ・日時:2月27日(木)13:00~14:00

 ・場所:学校法人福山大学社会連携推進センター 301研究室

 ※同時開催での展示「井伏鱒二未公開書簡の宛名人・高田類三の文学活動と高田家」

 ・日時:2月27日(木)10:00~16:00

 ・場所:学校法人福山大学社会連携推進センター 802研究室

 

当日は、新型コロナウィルスへの対応のため、両会場の入口にはアルコール消毒液を設置して手指消毒への協力を呼び掛けるとともに、開始後30分で会場の窓やドアを開き、換気をする対応を取りました。当日は、そのような事情にも関わらず40名あまりの参加があり、本研究の成果について熱心に聞かれました。

展示ガラスケース(粟村真理子氏撮影)

初めに、井伏鱒二研究者の前田貞昭氏から「井伏の書簡について」と題して、本研究対象である「井伏鱒二未公開書簡」の特徴と今後の研究の可能性についての話がありました。本書簡から見ていくと、これまで井伏が自伝的な文章や体験をもとにしたと思われる小説などで述べていることが、実際とは違っていることが見えてきたということでした。その過程でこれまでの年譜を書き換える必要も生じてきていることなどが報告されました。また、これまで全く見えていなかった井伏文学の基盤についても見えてくること、特に画家への志望をいつ頃まで持ち続けていたか、作家への志がそれとどのような関係を持っていたかなど、今後の井伏研究の課題であることなどの見通しが語られました。

前田氏による報告(粟村真理子氏撮影)

次に、地域文化の研究及び井伏の同時代の作家・宮沢賢治との関係を視野に入れな がら研究を続けてきた青木教授が「高田類三の文学活動と高田家について」と題して、展示の補足説明も絡めながら高田類三の文学とその文学を生む背景である高田家の歴史について話を行いました。そこでは、主として2つのことを語りました。第1は、井伏の習作時代における高田類三との文学の共通点についてです。早稲田を休学した井伏が、大正10年10月に因島から類三に出した手紙にあった志賀直哉への注目が、類三の日記の大正10年9月の記述の中の志賀への注目と共通していることを指摘、そこには志賀や中村憲吉(当時郷里で家業に携わっていた)など、同時代の文学の新しい傾向への注目が見られました。また、そこには「童話」というジャンルへの関心など、当時の若者たちの文学的表現への新しい動きを指摘しました。

青木教授による報告(粟村真理子氏撮影)

第2は、類三という地方在住文学者を生むことになった高田家の歴史についてです。類三の祖父で、高田鋳造所を開いた初代高田嘉助(西峯)は、江戸後期から明治にかけて生きた人物で、浄土真宗の熱心な信者であり地域に学校を創設するなど地域貢献を行いました。また、類三の父である二代目嘉助(品治、桃蹊)は、製塩釜を考案して広く大陸までその販路を広げましたが、その利益を公共事業に投じて、やはり地域に学校や信用組合を創設して、多大な地域貢献を行いました。その業績を顕彰する「桃蹊君碑」が新市小学校校庭にあるとのことです。特に、高田家は浄土真宗の信者として仏教的ネットワークにつながる一家であったようで、そのことは宮沢賢治の場合にも共通する一特徴であることを述べました。

報告会全体の様子(菊地永史氏撮影)

写真展示の様子(菊地永史氏撮影)

今後の研究は、同時代の地域と中央の文学者の交流と文学創造への動きの全体像を、東京を中心に福山、盛岡、信州などの数地点を共時的に調査研究してその動向を俯瞰的にみることを通して、変動期の「文学」のあり方を見えるものにしていくことを目指します。

 

学長から一言:井伏鱒二から友人に宛てた書簡という第一級の史料を得て、井伏鱒二や同時代の文学者等についての新しい研究世界が広がり、なかなかワクワク感のある研究が進んでいるようですねッ!さらなる発展を期待しています!!!