【☆学長短信☆】No.6 「“校正と後生”畏るべし」

 この短信、そして頻繁な寄稿に嬉しい悲鳴をあげている学長室ブログの原稿、さらには学内外に向けて準備する文書等を読み返し、必要に応じて字句の修正を施す機会が学長就任から格段に増えました。相当に注意深く目を通したつもりでも、後で周りから見落としの問題点を指摘されることも少なくありません。実に丁寧に読んで、的確な指摘をして頂いています。よくぞここまで細かく見て下さったと感激する一方で、自分の目は節穴かと情けなくなることもあります。 

 そんな時に頭に浮かぶのが「校正畏るべし」という言葉です。とくに近頃はパソコンの入力ミス(誤変換)に気付かず、とんでもない同音異義語を記載してしまっていることがあります。手書きの時代には余り起こらなかったミスでしょう。実は、この言葉を知ったのは古い話ではありません。最近監修者として関わった3巻本(『アジア教育情報シリーズ』の東アジア・大洋州、東南アジア、南・中央・西アジアの各編、一藝社、20212月刊)で、本当に印刷直前の最終段階になって見つけた誤植の修正を申し入れた際、出版社の会長さんからのメールの中で使われていたのです。私は、「後生可畏(後生畏るべし)」という故事成語は前から知っていましたので、まさに会長さんの「校正ミス」かと思いつつ語義を調べて、恥ずかしながら初めてその由来を知ったのでした。

  東京日日新聞(毎日新聞の前身)の初代社長であった福地源一郎が、どれほど念入りに文章を校正しても、最後の最後まで誤植は見つかることへの警句として、校正には襟を正して取り組めと説いたものとされ、出版業界では今でも語り継がれているとのこと。ちなみに、福地は、幕末に徳川昭武のお供で、若き渋沢栄一らとパリに赴いた外国奉行支配として、NHK大河ドラマの「青天を衝け」に登場した人物。福地がもじったのは『論語』の「子罕(しかん)篇」に見られる、上掲の「後生畏るべし。焉(いずく)んぞ来者(らいしゃ)の今に如(し)からざるを知らんや」。つまり、後から生まれて来る若者は無限の可能性を秘めているのであり、今の我々のレベルには及ぶことはないなどと侮ってはならない、との教え。しかし、その直後に「40歳、50歳になっても世間にその名が聞こえないようならば、これはもう畏れるに足らない」という意味の一文が続きます。この「後生畏るべし」のほうは、学位論文を基に四半世紀前に出版した拙著を、わが国の高等教育研究の発展を牽引された故喜多村和之先生にお贈りした時の礼状の冒頭にしたためられていました。喜多村先生はかつて助手としてお仕えしていた頃、職場の紀要のために書いた拙稿を文字通り真っ赤になるほどしょっちゅう直して下さった大恩ある方だけに、ずいぶん感激したものでした。

  生まれながらに文才があり、若くして達意の文章が綴れる天才もいらっしゃいます。しかし、多くの凡人は修練、習作を繰り返す中で悩みながら自分の文章を作り上げていくものなのでしょう。また、理系の論文のことは想像の域を出ませんが、余計なことは書かずに実験結果や発見の経緯・事実が正しく伝わりさえすればよいのかも知れません。しかしながら、文系は事実の正確な説明に加えて文章の巧拙が重要という面があります。自分自身のレベルはひとまず棚に上げておいて、さらに、相手の個性を殺してしまってはと心配しつつも、教員としては年若い学生の文章指導や添削を嫌でもやらざるを得ませんでした。逆に、これを若い時にやってもらっていないと、いつまで経っても書けないようです。

  日本語ならまだしも、近年では留学生の作品をはじめとして英語論文の添削まであります。こうなると、明らかな間違いで直ぐに直せる箇所は別にして、「これではまずいだろう」と分かっても、ならばどう直せばもっと気の利いた表現になるかまでは、悲しいかな私などには到底力が及びません。その指導が本務で、しっかりした専従のネイティブ教員が配置されていた職場では大いに助かったものです。

  ともあれ、年齢を重ねるにつれ、他人様が文章を直して下さる機会は確実に減ってきます。上記『論語』の一節をもじれば、「4050を過ぎてなお」他人様の力を借りるようでは情けない話ですが、内心嘲笑されながらそのままになるよりも、いくつになっても指摘を受けられるのは有り難いことと感じます。加えて、本学の年若い学生諸君については、「後生畏るべし」と感嘆させてくれる人が続々と現れて欲しいものです。