【☆学長短信☆】No.5 「“四高人”のこと」

 “四高人”という言葉があります。金沢にあった旧制第四高等学校関係者のことではありません。年齢、地位、学問、徳の四つが高い人のことを指します。年齢だけは一定程度を越えるとマイナス要素が加わることをひしひしと感じていますが、それ以外はいずれも、より高いに越したことはないでしょう。ところが、逆説的ながら、これらが高ければ高いほど、その状態にある人は周りが遠慮したり畏れたりして直言してくれなくなるため、“四高人”は最も利益を受けにくいというのです。明朝末期の中国江西に生きた魏伯子という学者の言葉として伝わる、驕りや不遜を戒める言葉です。 

 30代初めの駆け出しの頃、幸運にも単行書の出版話が舞い込み、取り組んだのが徐特立という人物の研究でした。その過程で出会ったのが冒頭の言葉です。同年輩で共著者の石川啓二氏が1919年の五・四運動前後の時期に北京大学学長を務めた蔡元培を、私が徐特立を担当しました(『中国の近代化と教育』明治図書、1984年刊)。書物の表紙に生まれて初めて自分の名前が載った思い出深い仕事であったことも手伝って、この言葉が頭の片隅から離れません。 

 ちなみに、徐特立は湖南省立第一師範学校で、まだ青年だった毛沢東を教えた先生であり、その後、42歳になっていたにもかかわらず、救国のための思想、学問、技術を学ぶことを目指し、働きながらフランスに留学する「留仏勤工倹学運動」に加わり、若き日の周恩来らと共に渡仏した人物です。帰国後、12500キロに及ぶ徒歩での「長征」を経て辿り着いた革命の聖地の延安では、文教分野の指導に当たり、自然科学院の院長も務めました。建国後には党中央委員の要職にありながら、日頃の衣服や帽子は延安時代のもので通して、国から支給された服や靴は外国の客人の招宴に出席するときだけに着用し、91歳で没するまで「革命第一、仕事第一、他人第一」の生き方に徹したと言われます。この徐特立が残した文章の中に上記の言葉が使われており、その教えを自ら実践していたことが窺われます。

 人物研究・思想研究で対象に惚れ込みすぎて、客観性が損なわれるようではいけませんが、自らの生き方のヒントを得ることは許されるでしょう。なお、いささか不確かになっている記憶を補強するため、書斎に置いていた以前のファイルも改めて眺めてみました。湖南省の長沙や陝西省の延安まで足を伸ばし、少しでも対象に迫ろうと、まだ若くて「研究」らしきものにギラギラしていた頃のことを思い出しました。 

延安自然科学院旧地について村の古老に尋ねる

大家に混じって(『無産階級教育家徐特立』人民教育出版社、1986年刊、98頁所載)

 思い出に浸るのが小稿のねらいでは勿論ありません。部分的にでも“四高人”に該当する人が少なからず含まれると思われる大学教員に関して、学生に対する粗暴な言動と毅然たる指導とをはき違えた人のケースなどを耳にするにつけ、冒頭の言葉を思い出すのです。学者はアンビバレントな存在。ある分野やテーマでは決して他人に引けを取らないという自負を持っている(いや、そういう自信が持てるほどにならねばならない)反面、足らざるところを一番分かっている(それが分からないようでは、これまた本物ではない)者のように思います。ひとり学者に限りません。誰もが“四高人”の教えを胸に、我が身を振り返りたいものです。