【☆学長短信☆】No.3 師道 ~我が師にまつわる三題噺~

 謙虚さをつくろうつもりなど微塵もなく、年齢を重ねるにつれ「我以外皆我師」の思いが強まるばかりです。他方、私には言葉の真の意味で「恩師」と呼ぶべき方が3人あります。故沖原豊教授、故スチュアート・フレーザー教授、そして顧明遠教授です。 

 まず、沖原教授は広島大や就実女子大の学長も務められた比較教育学者であり、世界に目を向けたこの学問研究へ田舎出の私をいざない、その「いろは」から手ほどきをして下さいました。そんな先生ですから、研究室のドアをノックする時など、とんでもなく緊張したものです。校風もさることながら、全体として大学教師にまだそれほど権威があった時代だからでしょうか。ただ、不肖の弟子は、ドイツ研究、なかんずく同国における比較教育学研究方法論を勉強させたいという師の意に沿わず、未だ国交も樹立していなかった中国の教育に惹かれ、途中で方向転換してしまいました。さらに、高等教育の研究を目指したことも先生のお気持ちに反するものでした。アジアの、しかも高等教育の研究という、当時としては、それにふさわしい就職先がほとんど考えられなかった道ばかり選んだようなものです。大学教師の端くれになって、ようやく学生の将来の進路まで考えねばならない立場が呑み込めたのですが、若い当時の私にそんな余裕はありませんでした。しかし、先生は学生の意思を寛大に尊重されました。 

 その後、自講座の助手にというお誘いを蹴って、別の大学教育研究センターの助手への応募を申し出た時には、もう時効でしょうが、さすがに逆鱗に触れ、その人事の結果の如何を問わず、金輪際、面倒は見ないので勝手にせよと言い渡されました。それまでの院生時代には、雑誌記事等への先生のご寄稿の下書きなどもしていましたのに、これ以後、ご編著への執筆の誘いは一切ありませんでした。きちんと筋を通されたのです。しかし、ずっと後年、「自分には3人の優れた弟子がいる」として、そのうちの一人に私の名前を挙げて下さったことを人づてに聞き、天にも昇る思いだったものです。学生に対する教師としての厳しさと深い思いやりに敬意を払うばかりです。 

 次に、私のアメリカ留学中の恩師が、やはり著名な比較教育学者で、とくに1970年代の米国の中国教育研究において、コロンビア大ティーチャーズ・カレッジのC.T.フー教授と双璧をなしておられた中国教育研究の権威フレーザー教授でした。アメリカの中国研究の手法を覗いて見たくて、奨学金を得て南部テネシー州を留学先に選んだのでした。1ドル=360円の固定相場制から変動相場制に移行し始めの頃です。飛行機というものにも初めて乗ったのに、羽田からシカゴ乗り換えでナッシュビルまでの長旅を緊張しっぱなしで過ごした末、どうにか一人で無事に辿り着いた夜の学生寮の部屋で、倒れ込むように、文字通り泥のように眠ったことを思い出します。 

 翌朝、寮まで訪ねて来て下さり、寝具もないことを知って、近くのスーパーまで私を車に乗せて毛布等の買い物に付き合って下さったフレーザー教授からは、アメリカの大学教師の学生への対し方の鮮烈な印象を受けました。店でお買いになったスナック菓子の袋を片手に持って、「一つ抓め」と勧めて下さる気さくさは、日本の大学の先生方からは経験したことのないものでした。同期生で、大学職員でもあった院生のように、先生をファーストネームで呼ぶような真似は決してしませんが、教師と学生との実にフランクな接し方はずっと変わらず続きました。 

 フレーザー教授は、私の卒業から数年を経ずして母国オーストラリアの大学に移られ、教育だけでなく人口問題や、中国のみならず、地の利を活かしてベトナムの教育に関する単著も続々上梓されました。先生の門下には留学生が多く居て、原語資料の解読に役立っていたようです。私も解放前中国のポスターに載ったスローガンの意味を尋ねられたことなどがありました。特定国・地域の理解にはまず当該言語の理解が不可欠と信じて来ていましたが、重箱の隅をつつくような原語資料の細かな解読もさることながら、物事の本質に切り込む大胆な発想や視点、解釈の妙というものの大切さを教わった気がします。また、外国の事情を説明するのに、単に口頭だけでなくスライドを多用する、当時の日本ではそれまで経験しなかった教授法を学んだのもフレーザー先生からでした。後に訪日された際、目黒にあった勤務先の研究所敷地内の文字通り「長屋」の宿舎の我が家まで訪ねて来て下さったことがありました。世の中がバブル経済で浮かれていた頃にもかかわらず、実に粗末な「荒ら屋」に暮らす弟子に同情を寄せられたかも知れないと思っています。 

 最後に、北京師範大学の顧明遠教授は、制度上の正式の師弟関係になったことはありませんが、今尚まさに「我が老師」です。1982年、中国での初めての半年の在外研究の開始時に、超多忙なスケジュールを割いて、まったく私個人のために「中国高等教育学」の3日間の連続講義を行ってくださいました。今も手許に残してあるその時の録音テープ3巻は、私の宝物です。その他にも顧教授は、若い外国人研究者が個人ではほぼ会うことの不可能な中国教育界の「大立て者」や著名な研究者に次々と引き合わせてくださいました。1986年の 2度目の長期訪中の際には、おそらく中国の研究活動の実際を体験させてやろうとのご配慮と理解していますが、中国比較教育学会の大会に合わせて湖北省の武漢大学で開催された教育辞典の編纂出版のための会議に私を伴って下さったこともありました。後年、会長として日本の学会を挙げて取り組んだ『比較教育学事典』(東信堂、2012年刊)の編纂では、この時の経験が役立ちました。訪日時のご講演の折に何度か通訳を務めさせて頂いたことも忘れがたい思い出です。学生にさまざまな経験を積ませる。大事な教えです。 

 

                  顧明遠教授の著作の拙訳本

 

    中国の教育関係の学会では最大にして最高峰の中国教育学会会長も務められ、卒寿(90歳)を超えられた今も、かくしゃくとして全国各地での指導や講演に忙しく活躍していらっしゃる顧老師の恐るべき記憶力は、とても常人のそれではありません。つい数日前も、オンラインで実施され、遠く離れていてもまるですぐ側で謦咳に接する思いで拝聴した中国教育学会主催の講座には、あっという間に25000人ものビューワーが集まるほどの人気ぶりです。御高著『中国教育、道はいずこに』(原語は『中国教育路在何方』、人民教育出版社、2016年刊)の内容解説を中心としたこのリモート講座では、教育に対する先生の熱い思いが語られていました。中国では、立身出世のために学び、面子や一流校ばかりを重んじ、実業教育を軽んずる悪弊があり、地域間格差、社会の貧富の差はいまだ深刻であることを指摘し、その解決策の核心が優れた教師の養成にあることを示唆されました。まとめの部分で、教育で最も重要なのは愛であり、愛情のないところに教育は成立しないと強い口調で言い切られたのが印象的で、我が老師は依然健在との思いを強くしたことでした。 

 「大塚君」「Yutaka」「大塚先生」と、今も耳に残る三人三様の私の呼び方に象徴されるように、独特な接し方で導き、お教え下さった恩師はいずれも、弟子たる私の研究や教育の在り方、もっと広く生き方に大きな影響を及ぼして下さいました。しかし、それぞれの国の比較教育学会の長を務められた日米中3か国の恩師から教えを受けた幸運を十分に活かし切れているかと我が身を振り返ることしきりです。 

 

【ちょっと良い話】 

●日本私立大学協会が発行する『教育学術新聞』(519日付け)に掲載の「私大の力」という特集で、本学の建築学科の活動が取り上げられ、全国に向けて発信されました。小見出しの表題は「どっこい!元気のいい『建築女子』」。これまで学長室ブログでも、つい先日の記事も含めて(詳細はブログをご覧ください)、関連の実践が報告されたことがありますから、ご存じの方も多いと思いますが、建築学科が数年来実施しているキャリア教育プログラムの「びんご建築女子」の活動です。単発のイベントではなく、コロナ禍にもめげず息長い実践が続いているのは、同学科の藤原美樹教授や佐々木伸子准教授の頑張りの賜物です。記事ではまた、就職氷河期に本学の大学院を卒業した後、現在までバリバリの建築家として、新聞記事の表現を引用すれば、「かつての『男の職域』でもイキイキ」と活躍する木村美加さんのことにも触れられています。魅力的な教育プログラムに惹かれて、ますます多くの生きの良い女子(もちろん男子も大歓迎!)が未来の建築家を目指して建築学科に集まり、有為な人材が次々と輩出される予感がします。