【人間文化学科】井伏鱒二「鞆ノ津茶会記」の史跡をたずねて

【人間文化学科】井伏鱒二「鞆ノ津茶会記」の史跡をたずねて

井伏鱒二フィールドワーク2018年度第1回。本学科でおこなわれた、井伏鱒二「鞆ノ津茶会記」にまつわるフィールドワークの模様をお伝えします。こんにちは。学長室ブログメンバー、人間文化学科の村上です。

以下、青木教授による報告です。

井伏鱒二フィールドワーク2018年度第1回 報告 ―三原・世羅・宇津戸―

6月23日(土)のフィールドワークは、「鞆ノ津茶会記」に描かれた金属文化の史跡を実地踏査することが中心でした。天正年間の中国地方は、織田信長の影響が及び出すと、地域の勢力図が表面下から次第に崩れ始めます。
「鞆ノ津茶会記」は、秀吉による備中高松城の水攻めとその余波を受けた杉原家のお家騒動を描いています。そのさなかに本能寺の変で織田信長は死去するのであり、小説はその激動の一瞬をとらえています。中国地方は、都周辺の戦国武将達にとっては、大陸との交易や、鉱物資源の豊富さから宝の山と言える場所であったと思われ、攻め込まれた毛利側は防戦を強いられることになるのです。今回巡った場所は、三原城、御調八幡宮、大田庄、今高野山、宇津戸という古来の要地で、中国地方の中山間地域が古来、中央の権力者にとって経済的、政治的、宗教的な要地であったことを示すものでした。

フィールドワークの日程表
9:30   松永駅スクールバス発着場集合
10:00 みはら歴史館見学
10:45 三原城跡見学
11:00 御調八幡宮(三原市八幡町宮内21)見学
11:30 移動、昼食 (道の駅世羅で昼食)
13:00 今高野山(広島県世羅郡世羅町大字甲山159)到着。
13:00~14:00 大田庄歴史館・今高野山龍華寺見学。
14:30 宇津戸(世羅町宇津戸)
14:30~15:30、東大寺鋳物師丹下氏関連史跡(屋敷跡・菩提寺など)見学。
15:30 同上出発
16:30 松永駅スクールバス発着場到着・解散。

参加者
学生3年生 9名、1年生5名
引率 青木美保
講師 田口義之氏
大学関係者 前田貞昭氏(兵庫教育大学大学院教授)、谷川充美氏(本学非常勤講師)
報道関係者 粟村真理子氏(中国新聞エリア通信員)

1、三原城
三原城は、小早川隆景が築いた、瀬戸内海と中山間地域をつなぐ「浮城」と言われる海城で、水軍を率いる小早川氏の営みを具体的に見ることのできる城でした。天守台の有無は不明とのことですが、城壁の上から下を見下ろしながらの説明で、海と旧山陽道とが接するまさに交通の要地であったことが実感されました。
また、三原城は平成29年に築城450年を迎えましたが、築城の年代については、不明な点もあるようです。田口先生の説明では、三原城は元々は隆景の隠居所として建てられたもので、永禄10年(1567年)から築城が始まり、完成は慶長の役(慶長2年・1597年)の前後ではないかとのことでした。「鞆ノ津茶会記」に登場する三原城は、年代から言ってその詰め城である対面の桜山城を指すのではないかとのご意見でした。

2、御調八幡宮
御調八幡宮は、三原市郊外の山中にある立派な神社です。その創建は769年と古く、古代の歴史的事件に絡む古代ロマンの聖地で、広島県最古の八幡宮とのことです。その後、平安時代初期には石清水八幡宮の別宮となって、八幡荘と呼ばれる石清水八幡宮の神領として藤原家の支配下となり、その後毛利に到って社殿を改造、備後国総鎮守として栄えました。天正年間、三原城に滞在した秀吉も参拝したそうです。木造狛犬及び古版木、阿弥陀経等、国の重要文化財も多く保存されています。

3、大田庄歴史館
ここは、平成25年にもゼミの学生と訪問して、学芸員の林光輝氏から貴重な資料をデータでいただいていたところです。今回は、先ず館長さんから、大田庄の歴史について詳細な説明があり、この土地の歴史的意義を認識しました。この地は、当初地方豪族・橘氏の所有でしたが、平家に寄進され、平家は後白河法皇を荘園領主と仰いで、平重衡を預所としていましたが、平家滅亡後は、後白河院から高野山金剛峯寺に寄進され、高野山の経済を担う重要な荘園となっていました。この地が農業、鉱業等の産物が豊かで、またそれらの産物を尾道港から瀬戸内海を通じて運搬できるという地の利もあったことが中央の権力との結びつきを産み出していたことが知られました。
さらに、今回のフィールドワークのメインと位置付けていました、宇津戸の鋳物師・丹下氏の事跡について、学芸員の林光輝氏から館内で説明を受けました。

 

なぜメインかというと、井伏鱒二の地域の歴史把握の中に、中国山地の金属文化が中心的な位置にあるのではないかということが作品から読み取れるからです。鋳物師たちは、神社・仏閣に宗教用具を納めると同時に、鍋釜農具などの日常用品、刀剣・鉄砲などの武器を作って地域の経済に幅広く貢献していました。そして、井伏が特に注目していたのは、寺の梵鐘です。エッセイ「鐘について」連作(昭和8年)では、鐘が村人の意志を一つにする日常的な合図であることを強調しています。そして、その中に、井伏がフィールドワークして弓削島の越智氏から伝え聞いたという大三島肥海村金剛寺の、明治13年の梵鐘鋳造の様子が生き生きと描かれています。そこでは、梵鐘鋳造が、大勢の僧侶の読経のもと、村人の見守る中で、沢山の職人が作業に携わり、大々的に執り行われる一大イベントであったことが分かります。これらの事業を担当する鋳物師たちは、いわば鉱物から「梵鐘」を作り出すという神業を行う特別な職人たちだと言えます。その職人への思いが、これらの作品には現れていると思われます。そこには、福山中学時代の同級生で、文学仲間の高田類三氏への思いも含まれているように思います。
ただ、林氏の説明の中では、丹下氏が朝廷から得た「勅許」という称号も、実は地方で事業を展開する際、自らの権威付けのために用いたという一面もあったという説明もあり、鋳物師という職業の種々な面が知られました。

 

4、今高野山龍華寺
平成25年のフィールドワークでも訪れましたが、そのときと比べると、境内は整備がなされて、沿道には喫茶店も開店していました。
今高野山は現代版高野山という意味で、高野山にとっては、荘園である大田庄経営の中心であったとのことです。弘法大師御影堂、高野・丹生明神、十二院が一山をなす大寺院でした。そこに、丹下氏制作の梵鐘が実在しています。鐘楼の外から鐘をつくと、非常に深い音が余韻を残して鳴り響き、鋳造当時が思われました。
そして、この度思わぬ発見がありました。丹生明神の社殿両脇に、高田鋳造所の名が入った用水槽が発見されたのです。今回のフィールドワークは、鋳物師の歴史についてという主題でしたので、高田奎吾氏(高田類三氏御子息)にも声をかけて同行していただきましたが、お父上から聞いてはいたが、初めて確認されたとのことで、感慨深そうに見ておられました。
我々は井伏のフィールドワークの中で、このような場面に時に出会いました。地域の歴史が世代を超えて繋がって行くのを、学生たちにも実感させることができました。

5、丹下氏関連遺跡
丹下氏制作の梵鐘がある観音寺で、美しい梵鐘を見ることができました。今高野山の梵鐘は鐘楼に入っているため、近くで見ることはできません。レプリカが歴史館に展示されているだけですので、ここでは本物を間近に見ることが出来て良かったです。梵鐘の側面にぐるりと美しい文様があるのですが、その中の飛天のレリーフが優雅で、目を奪われました。この鐘は現在も時鐘として使われているとのことで、鳴らしてみることはできませんでしたが、その音が想像されました。
さらに、宇津戸の町並みを歩いて丹下氏の屋敷跡を通り、菩提寺である照善寺に行きました。その境内には、大きな石の一族の合同墓がありました。ある時ばらばらにあった墓が合祀されたとのことで、一族の権勢が想像されました。
宇津戸は、石州街道と旧山陽道の両方に通ずる所にあり、これも交通の要地と言える場所であったのだろうと思われました。

今回のフィールドワークも、今では知ることのできない地域の歴史が感じられ、我々の住んでいる地域の世界観が拡がりました。井伏鱒二の作品を通して、わたしたちは井伏の世界観を構築し直していることを感じます。それは、地方創生の現代において重要な視点の転換を実現させてくれます。
後期は、奥出雲のたたら製鉄の跡を訪ねる予定です。備後の特徴が出雲とのつながりから見えてくるのではないかと期待しています。

 

学長から一言:なんと中身の濃いフィールドワークでしょうか!!!下準備も、帰ってからのまとめ等もしっかりやらないととても身につきそうにないので、学生の皆さん、素晴らしい勉強になりましたねッ!!!