【人間文化学科】世界遺産・石見銀山フィールドワーク~世界へと繋がる「銀」の道~

【人間文化学科】世界遺産・石見銀山フィールドワーク~世界へと繋がる「銀」の道~

現地に赴いて初めてわかることがある、というのは、フィールドワークの魅力の一つです。

学長室ブログメンバー、人間文化学科のSです。こんにちは。今回は、ゼミにおいてフィールドワークを継続して行っている、青木美保教授からの報告です。なぜ、石見銀山が世界遺産となったのか。キーワードは、日本と世界を結んだ「銀」とその歴史にありました。

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1、石見銀山フィールドワークの行程

今回は、11月9日・10日と1泊2日で、世界遺産・石見銀山に行ってきました。両日とも快晴で、フィールドワーク日よりでした。9日は、石見銀山ガイドの会の大野幸夫さんの案内で、石見銀山史跡をめぐる全行程5キロの山路をウォーキングしました。その中には、石見銀山開発の先鞭をつけた博多商人・神屋寿禎ゆかりの清水寺(せいすいじ)、江戸時代初期に銀山開発を担った代官・大久保長安の史跡、明治時代に銀山開発を手がけた藤田伝三郎の清水谷精錬所跡などが含まれています。どれも今は苔むした姿で、山懐に眠っています。そして、その史跡の中心は、江戸時代を中心に掘られた坑道・龍源寺間歩(りゅうげんじまぶ)です。公開されている全長273メートルの坑道の中を歩き、鉱脈とその彫り跡について説明を受けました。

江戸初期開発の福神山間歩

銀山坑道への道

龍源寺間歩入口

安養寺前で

銀山開発ゆかりの清水寺

2日目は、世界遺産センターで、大田市教育委員会・石見銀山課の山手貴生さんの解説で、展示を見ながら、石見銀山の歴史とその意義について知ることができました。私たちの目的は、井伏の小説「鞆ノ津茶会記」に登場する、中世の石見銀山と戦国武将とのかかわりについてでしたが、考古学的発掘に携わっておられる山手さんの話では、中世の遺物については少量しか発見されていないとのことで、不明な点が多いようでした。むしろ、中国・朝鮮・ヨーロッパの史料の中に、当時の石見銀山をはじめとする日本の銀についての記述があるということが、世界遺産となった理由であることがはじめてわかったのでした。

石見銀山世界遺産センター前で

山組頭の高橋家

2、小説「鞆ノ津茶会記」における石見銀山と金属文化

小説「鞆ノ津茶会記」はなかなか難しい小説です。描かれた時代は秀吉が天下をとってからその力が衰える関ヶ原の戦いの前年までの安土桃山時代の後期(天正16年(1588)~慶長4年(1599))で、その時代のことは、本能寺の変(1582年)や秀吉の天下取り(1583年)、朝鮮出兵(1592年~1598年)など歴史教科書で良く知られているのですが、難しいのは、小説ではそれを備後の地域の話題を中心に描いているからです。その時代に有名な戦で活躍した武将はよく知っていますが、そのころ備後にどんな武将がいたのか、そこでどんなことが起きていたのかということは、並の歴史事典等を引いても出てきません。そこに、数年をかけて地域をフィールドワークする必然性があるのです。それは、地域の旧家に遺る古文書や古い書簡等を地道に読んでいく作業の上で見えてくる、言わば地味な地域史の世界と言えます。例えば、それらの古文書は『備後叢書』に入っている旧記のようなもので、井伏もおそらくそれらを読んでいたと思われます。その時代の備後を知ることは、水野勝成入城以前の福山市、つまり神辺城に中心があったころの源・福山市の歴史を知ることにもつながっていきます。

これまでのフィールドワークでは、2016年は神辺の史跡、2017年は瀬戸内海の島々をめぐる水軍の史跡、2018年は小説内の金属文化にまつわる出雲たたら製鉄、大田庄の鋳物師にまつわる史跡をめぐりました。

本小説の始めの方で、石見銀山を開発した博多の商人、神屋寿禎のことが語られ、地域の武将たちが舟で芦田川を遡り、父尾銀山(備陽史探訪の会が2013年に場所を確認)に向うという下りがあります。当時の石見銀山はどのようなものだったのでしょうか。

それは、石見銀山世界遺産センターに展示された、スペイン語の日本地図がよく示しています。16世紀の世界では銀の需要が高まって、石見産の銀は特に品質が高いことで知られ、世界中で求められていたとのことです。地図の傍に、フランシスコ・ザビエルの書簡にある「スペイン人は日本を銀の島と呼びます」という一文が、引き伸ばされて展示されていました。特にポルトガル人の日本への関心は突出していたようで、鉄砲伝来(1540年代)や、織田信長の南蛮趣味、日葡辞書の作られた必然性などが、一気に納得されました。

そして、その石見銀山の銀から挙がる利益を巡って戦国武将の争奪戦が繰り広げられ、その支配権は、大内氏から、尼子氏・毛利氏の争奪戦を経て、1562年に毛利の支配するところとなったとのことです。その余波の戦は、神辺城周辺にまで及んでいました。そして、銀山からの利益が、安土桃山文化の豪華絢爛な文化創造の財源であったようです。

小説「鞆ノ津茶会記」は井伏85歳のときの作品で、これまで評価も言及もあまりなく、これまで関心をもたれていない作品ですが、青木ゼミフィールドワーク4年間の実績を踏まえて、いろいろなことが言えそうです。それは、また論文で明らかにします。請う、ご期待!!

3、参加学生の感想

今回の研修で、私は初めて石見銀山に行きました。そこで私は銀山とその発見の歴史、銀の採掘跡、発掘された銀がどのようにして作られ、日本を含めた世界でどのように使われていたのかを知ることができました。実地に赴くことでしか得られなかった体験ができたと感じます。3年次 ゼミ生 蜜石武留

今回のフィールドワークで、私たちは石見銀山に行った。スタッフの案内を通して、私は日本の鉱山開発に関する歴史と知識を得ることができた。また、見学の間に、他のゼミ生との関係がよくなった。現在、私はゼミの皆と簡単な相談ができて、以前よりも自信を持つことができるようになっている。今回の見学を通して、留学生の私は日本の生活にもっと慣れることができると思う。 3年次 ゼミ生 徐 震東

 

学長から一言:青木ゼミのフィールドワークも足が地に着いてきましたねッ!小説は書斎で読む物とは限らないようです。百聞は一見にしかず。。。学生達もフィールドワークならではの学びをしっかりと受け止めているようです!