【☆学長短信☆】No.16 「アクティブ・ラーニングをめぐって思うこと ~ デューイとブルーナー ~」

終戦から間もなく文部省が発行した『新教育指針』には「個性尊重の教育」が盛り込まれ、1947年の「学習指導要領(試案)」では、民主主義精神の涵養や教師の教える自由とともに、子どもを教育の中心に置くことが示されました。活動(action)や子どもの経験に基づく教育の在り方を訴えたものであり、アメリカの哲学・心理学・教育学の大家であるジョン・デューイの考え方の影響によるところが大きいとされています。今日隆盛のアクティブ・ラーニングと根本においてつながっていると言えるでしょう。 

1859年生まれのデューイは、バーモント大学でダーウィンの進化論やオーギュスト・コントの実証主義哲学の影響を受け、卒業して高校教師や小学校教師を短期間勤めた後に、大学院大学として有名なジョンズ・ホプキンス大学で心理学者のスタンレー・ホールの薫陶を受け、後にはやはり心理学者のウィリアム・ジェイムズの影響を受けて、自らの哲学思想を確立していきました。新設のシカゴ大学によって哲学科主任教授として1894年にわずか35歳で招聘されると、同大に付属実験学校を設立し、糸紡ぎや染め物など各種の作業を子ども達が実際に「なすことによって学ぶ」(learning by doing)教育を実践しました。さらに、1904年にコロンビア大学のティーチャーズ・カレッジに移ってからも、20世紀前半のアメリカ教育界で進歩主義教育運動の指導的存在として活躍しました。 

こうしたデューイの経験主義ないし生活適応教育や進歩主義的教育と呼ばれる考え方に異を唱えたのが、1915年生まれでハーバード大学やオックスフォード大学などで勤務した心理学者のジェローム・ブルーナーでした。とくに1957年にソ連が人工衛星「スプートニク1号」の打ち上げに成功すると、時は冷戦体制の下、アメリカでは科学技術とその教育の遅れを懸念する声が上がり、1959年に開かれた全米科学者会議での自然科学教育の改善に関する議論を踏まえてブルーナーがまとめたのが『教育の過程』という書物でした。それまでアメリカ教育界で主流であった、上述の子どもの経験を重んじ、子どもの限定された興味・関心だけに添ったものとは異なる教育の在り方が示されました。すなわち、各学問領域にはその本質となる「構造」が存在し、子ども達に主体的に働きかけることで、この「構造」を「発見」させるプロセスを通して子どもの科学的興味・関心を呼び起こし、学習内容の理解を容易にする道筋が提唱されたのです。しかも、そうした学問の「構造」はどの発達段階の子どもでも、教え方次第で理解しうるというのです。 

この考え方に基づいて、教育内容を再構成する動きが起こりました。「教育内容の現代化」と呼ばれたものです。当然のように、日本も影響を受けました。1968年の学習指導要領の改訂では、小学校の算数に「集合」を教えることが採り入れられたことに象徴されるように、学習内容が増え、教育内容の高度化が起こりました。ところが、何年か経つと、授業について行けない子どもが現れ、学習における消化不良状況が問題視されるようになり、次の1977年の学習指導要領の改訂では「ゆとり教育」が導入されました。しかしながら、今度は逆に学力低下との指摘や批判の声が上がり、国の政策が「脱ゆとり教育」へと舵を切ったのは記憶に新しいところです。 

このように初等・中等教育の在り方に関する基本的考え方は、戦後だけに限っても、時計の振り子の如く、代表的論者であるデューイとブルーナーという両極の間を右に左に揺れ動いてきました。ところで、1960年代初頭の私自身の経験を語ると、小学校高学年の担任の先生が、時期的にはすでに経験主義の見直しが起こっていた後であったにもかかわらず、なぜか子どもの自主性というか、子ども自身の「調べ学習」をえらく重視され、来る日も来る日も班に分かれて調べて来ては発表するだけで、あまり先生からの補足説明がなかった時期が続いたのを思い出します。当時、子ども心にも、こんなので良いのかと思ったものです。こうした指導が、単なる怠惰などから来たものではなく、教育的信念に基づいていたなら許されますし、薄っぺらであっても自分自身で調べた内容はそれなりに定着したのでしょう。しかし、一方でもっと系統的に学ぶ機会を失ったのではと感じたりしています。 

以上は、決して昔話ではありません。昨今、本学も含めて大学でもアクティブ・ラーニングの重要性が叫ばれる教育の在り方は、大局から見れば、上述したデューイの考えに近いと言えるでしょう。その意義や大切さについては言を俟ちませんが、それが実践される場合、要は幅広い知識や経験を踏まえた教員からの事の本質を突くような適切な問いかけ(教育学では「発問」と言います)が重要なのでしょう。さらに言えば、教員と学生の間の対話に留まらず、学生同士の対話や遣り取りを誘発するような発問が必要でしょう。つい先日参加した学内の授業研究で目にした公開授業後にも考えさせられ、アクティブ・ラーニングという言葉を目や耳にするたびに、その成否は発問の妙にかかっており、教師が事前にどれほど準備し研鑽を積んでいるかによると思えて仕方ないのです。