【☆学長短信☆】No.13 「一切衝動皆満足」の教育

新入生を迎える4月になりました。新入生に伝えるべき本学の「建学の精神」の中では、「地域社会に広く開かれた大学」であることを掲げるとともに、「全人教育を行う」ことを謳っています。この全人教育という言葉を聞くと、何か分かったような気になっていますが、実はかなり意味深長な概念です。一般には、人間性を一面的な知識・技能にのみ偏らせることなく、人間がもつ諸資質を、全面的かつ調和的に育成しようとする教育と理解されます。 

の概念を日本で最初に「全人」、つまり「全き人間(The Whole Man)」という語彙に込めて使ったのは玉川学園の創始者の小原國芳氏であり、その後、広く使われるようになりました。同様の概念として「全面発達の教育」などがあり、英、独、仏、露語などに同義の言葉がありますし、この思想自体は古代ギリシャやルネサンス期にも認められ、完全に独創的とは言えないと思います。本学創設の逸話も想起させますが、自らの教育理想を実現したいとの思いが、玉川という新たな学園創出に繋がったのは有名です。そこに見られる説明によれば、教育の目的は、人間文化の6つの要素である学問、道徳、芸術、宗教、身体、生活について、それぞれの理想である「真」「善」「美」「聖」と、それを支える補助的な価値として「健」「富」を備えた完全で調和のある人格を育むことであるというものです。 

全人教育の考えが明らかにされたのは、1921(大正10)年818日に大日本学術協会主催により東京高等師範学校(筑波大学の前身)の講堂で開かれた講演会でのことです。連日、18時~23時頃まで満員の盛況であったという同講演会は「八大教育主張講演会」と呼ばれます。その名のとおり、この講演会では、①自学主義教育の根底(樋口長市)、②自動主義の教育(河野清丸)、③自由教育の真髄(手塚岸衛)、④衝動満足と創造教育(千葉命吉)、⑤真実の創造教育(稲毛詛風)、⑥動的教育の要点(及川平治)、⑦文芸教育論(片上伸)、⑧全人教育論(小原國芳)という、8つの教育主張が展開されました。 

明治期までの教育は、教師中心で、注入と模倣を旨としてきましたが、8人の論者は各々持論を展開し、従来の教育学者のように欧米の思想や教授法の翻訳紹介にとどまらず、自らの実践をふまえて、児童中心主義的共通点のある新説を打ち出そうという意気込みに溢れていたようです。これらのうち、冒頭に述べた本学の建学の精神にも盛り込まれた全人教育は、私には教育の最終到達点を示したもので、それに至る具体的道筋ないし力学を示す点で弱いように思われます。その点で対極にあるように思え、簡潔明瞭で以前から惹かれていたのは、千葉命吉という人と思想です。 

千葉は明治20年に秋田県湯沢市に生まれ、湯沢尋常・高等小学校を経て秋田師範を卒業、その後、文部省中等教員検定試験(修身・教育・歴史)に合格して、中等教員の資格を取得し、札幌師範、愛知第一師範、奈良女高師附属小学校などを経て、大正9年に広島師範学校に赴任し、同校の教諭兼附小主事になっています。この時期、小学校の訓導、つまり現代風に言えば教諭とともに独自の教育実践を展開し、教育に関する新たな考え方や種々の教授法を編み出して行きます。上記講演会での主張もその一端であり、「一切衝動皆満足(いっさいしょうどうみなまんぞく)」の教育と称されます。簡単に言えば、「好きなことをやってそれを徹底するときに始めて本当の善となる」と主張し、「衝動」とは「初発創造の生命であって、知とも情とも未だ分別せぬオリジナルな力」だと言うのです。千葉はさらに次のようにも考えました。児童の「衝動」と「満足」をつなぐものとして「葛藤」がある。「葛藤」とは、児童の中に2つ以上の欲求が生じたり、あるいは教師と児童の欲求が対立したり、事物事象の中に矛盾が生じたりすることである。「葛藤」のある児童には自発問題が生じ、学習動機となる、と。 

ころで、この「一切衝動皆満足」論の流れの中で千葉が主張した「正行久松同善論」が物議を醸します。正行(まさつら)とは、有名な楠木正成の嫡男にして、南北朝時代、南朝の後村上天皇に仕えた武将ですが、少数の兵にもかかわらず南朝に忠義を尽くして戦って討ち死にし、軍記物語『太平記』で忠臣と讃えられ、後に明治天皇から追悼の勅語を賜った人物。一方の久松は歌舞伎や浄瑠璃に登場し、奉公先の大坂の豪商の娘お染との許されぬ恋のために心中する丁稚。千葉は久松と正行を対比し、両者とも人間の衝動の徹底的な満足を求めた点において倫理的に善であり、町人の心中も武士の義死も同等と解釈しました。しかしながら、大正102月の第44回帝国議会貴族院予算委員会において、元文部官僚であり、京都帝国大学総長も務めた貴族院勅撰議員の岡田良平(1864-1934)が、千葉のこの「正行久松同善論」を危険思想として批判しました。そこで文部省は千葉の思想調査のため督学官を広島に派遣し、督学官は知事、県視学、校長らとともに徹底的な追及を行い、広島師範学校長も事態の拡大を抑えるために千葉の説得に当たったようです。しかし、もともと「一切衝動」を唱える御仁ですから、その程度のことでへこたれるものではなく、結局、広島県知事が動き、千葉は師範学校に退職届を出さざるを得なくなりました。このことは時代が違うとはいえ、現代でも似通った傾向に対しては、「いつか来た道」を再び歩まないために感覚を研ぎ澄ましておく必要があるとの、自らへの戒めとすべきでしょう。その後、千葉は学問研究のため、コロンビア大学に有名な哲学者ジョン・デューイを訪ね、次いでベルリン大学の哲学者シュプランガーの許で研鑽を積み、自説をドイツ語で出版しますが、その内容に関して著名なシュプランガーやナトルプと相容れることはなかったと言われます。 

千葉は帰朝後、立正大学講師となり、欧米滞在中の蓄積も踏まえ多くの著作を残していますが、かなり牽強付会というか、関係の事柄や他者の意見をこじつけて自己の解釈のために合理化していくタイプの人であったようです。そうした千葉の人柄はさておき、彼の「一切衝動皆満足」の主張が、少なくとも私には本学の学生が「全き人間」に近づくようにするために、一つの有効な方法上の指針として銘記に値する事のように思われるのです。さて、皆様はどう考えられるでしょう。